※画像はイメージです。岩城常隆
Iwaki Tsunetaka
岩城氏の第17代当主——佐竹・伊達の間で揺れ、小田原征伐の後に没した陸奥の領主
解説
岩城常隆(いわき つねたか)は、戦国時代の陸奥国の武将で、岩城氏の第17代当主。永禄10年(1567年)に生まれ、天正18年7月22日(1590年8月21日)に享年24で没した。官位は従四位下・左京大夫。
家督と佐竹氏
父・岩城親隆の病後、母の桂樹院と佐竹義重が後見人となった。常隆の家督継承は天正6年(1578年)とされる。
伊達氏・田村氏との関係
伊達輝宗と縁戚だったため、当初は伊達氏と融和的だった。天正7年(1579年)に伊達輝宗が子・政宗の正室として田村氏の娘・愛姫を迎えると、佐竹寄りになった。天正11年(1583年)には伊達・相馬間の調停を周旋した。人取橋の戦いでは佐竹方として参戦し、家臣が伊達方の鬼庭良直を討ったとされる。天正17年(1589年)の摺上原の戦いの後、岩城氏は伊達氏と和睦した。
小田原征伐と最期
小田原征伐に参陣して所領を安堵された。その後、相模国高座郡座間郷で没した。墓所は座間市の心岩寺とされる。養嗣子には佐竹義重の三男・貞隆が立った。実子の政隆は岩城領を追われて伊達氏に逃れ、後に伊達姓に復して仙台藩一門となった。