※画像はイメージです。今川了俊
Imagawa Ryōshun
九州探題・文武両道の詩歌の名手
解説
今川了俊(1326-1420)は南北朝時代から室町時代初期にかけて活躍した武将・歌人であり、幕府の九州探題として南朝勢力を平定する一方、和歌・連歌においても第一級の文化人として日本文学史に名を刻んだ稀有の人物である。俗名を貞世といい、出家後に了俊を名乗った。享年94歳(推定)という長寿も、その波乱に富んだ生涯を象徴している。
了俊は駿河今川氏の出身であり、幼少期から武芸と和歌・学問に励んだ。南北朝の動乱においては足利方(北朝方)に属して各地で活躍し、その軍事的・外交的才能を示した。1371年、足利義満は難攻不落の九州南朝方を平定するため、了俊を九州探題に任命した。これは極めて困難な任務であったが、了俊は軍事力だけでなく巧みな外交交渉によって南朝方の連合を切り崩し、1372年に大宰府を陥落させ菊池武光・懐良親王の勢力を肥後に追い込んだ。
了俊の九州支配は約20年間続き(1371-1395年)、この間に彼は九州の内政整備にも力を注いだ。守護・地頭の統制、流通の整備、港湾の管理など近世的な地域支配の萌芽がこの時代の九州に見られる。また了俊は征服した地域の武将たちとの融和政策を重視し、実力だけでなく文化的な権威でも九州の人々の心を掌握しようとした。
刀剣と了俊の関係は、武人としての本質から自然に生まれたものである。了俊は武芸百般に通じており、特に刀剣の目利きとしての素養を持っていたとされる。九州探題として九州を支配した時代、了俊は筑前・筑後・肥前・肥後など各地の刀工たちを庇護した。九州はもともと刀剣の名産地であり、筑前・豊後・肥後の各地に有力な刀工集団が存在したが、了俊の時代にはこれらの刀工集団が南北朝の戦乱を経てより洗練された技術を確立しつつあった。
和歌・連歌においての了俊の業績は武人としての名声に劣らない。「落書露胤」「道ゆきぶり」「今川了俊家集」などの和歌集・旅行記を著し、冷泉派の歌道を広める文化人として高い評価を受けた。冷泉為秀に師事して和歌の奥義を極め、弟子には後に「新続古今和歌集」の撰者となる飛鳥井雅世もいた。
1395年、了俊は義満によって九州探題を解任された。その後は政治の中枢から離れ、和歌・連歌に専心して晩年を過ごした。94歳という長寿の中で了俊は戦国時代の前夜を経験し、室町文化の黄金期から応仁の乱前夜まで生き続けた。文武を兼備し、武人としても文人としても超一流の業績を残した今川了俊の生涯は、日本中世が生み出した最も豊かな知性と実行力を持つ人物の一人として評価されている。
所持した刀剣
- 九州の名刀
- 今川家伝来の太刀