※画像はイメージです。北条時頼
Hōjō Tokiyori
鎌倉幕府第5代執権——引付衆を置き、鎌倉に名工を招いて相州伝の淵源をつくった得宗
解説
生涯
北条時頼(1227-1263)は、鎌倉幕府の第5代執権。北条時氏の子で、4代執権・北条経時の弟にあたる。寛元4年(1246年)、兄経時の病により20歳で執権職を継いだ。同年の宮騒動で前将軍・藤原頼経を追い、翌宝治元年(1247年)の宝治合戦では有力御家人の三浦氏を滅ぼして、幕府内の反得宗勢力を一掃し、北条氏の主導権を決定的なものとした。
訴訟制度の整備
建長元年(1249年)、時頼は評定衆の下に引付衆(ひきつけしゅ)を設置した。これは御家人の所領訴訟を専門に審理する機関であり、裁判の公正と迅速化を図ったものである。所領をめぐる訴えが幕府の根幹に関わる時代にあって、この改革は御家人の広い支持を集め、時頼の治世を代表する善政として評価されている。
得宗専制への道
康元元年(1256年)、時頼は病により執権職を北条長時に譲って出家するが、その後も北条氏惣領(得宗)として実権を握り続けた。以後、公式の職である執権・連署よりも得宗が実質的な決定権を持つ体制が固まっていき、いわゆる得宗専制の起点となった。なお「得宗」の呼称そのものは2代執権・北条義時に由来するとされる。
刀剣との関わり
時頼は建長年間(1249-1256年)、幕府の威信を高めるべく諸国から名工を鎌倉へ招いたと伝えられる。山城国粟田口派の粟田口国綱、備前国の備前三郎国宗らがそれにあたるとされ、幕府は屋敷と俸禄を与えて厚遇したという。国綱の系統からは新藤五国光が出て、さらにその門流から正宗が現れたとされ、鎌倉に興った相州伝の淵源はこの時頼による刀工招聘に遡ると語られる〔刀工の系譜や招聘の経緯には伝承の要素が多く、諸説がある〕。日本刀の五箇伝の一つ、相州伝の成立を語るうえで時頼の名が重んじられるのはこのためである。
逸話と後世の評価
時頼には、出家後に身をやつして諸国を巡り民情を視察したという廻国伝説があり、謡曲『鉢の木』はその代表である。大雪の夜、落ちぶれた佐野源左衛門常世が秘蔵の鉢の木を焚いて旅僧をもてなし、後にその旅僧が時頼であったと知れて所領を与えられる、という物語で、時頼を民情に通じた名君として描いている〔文学上の伝説であり、史実とは区別される〕。政治家としては得宗専制の道を開いた強権的な面と、訴訟制度を整えた善政の面の両方から論じられる。