※画像はイメージです。飛鳥時代614年-669年
藤原鎌足(中臣鎌足)
Fujiwara no Kamatari
藤原氏の祖——乙巳の変で蘇我入鹿を討ち大化の改新を導いた重臣
解説
生涯
藤原鎌足は、推古天皇二十二年(六一四年)、神事・祭祀を司る中臣氏の家に生まれた。当初は中臣鎌子と名乗り、若くして学問を好み、中国の政治制度にも通じていたと伝わる。
乙巳の変
皇極天皇四年(六四五年)、当時政権を専断していた蘇我入鹿の打倒を志した鎌足は、中大兄皇子(のちの天智天皇)に接近し、蹴鞠の会で皇子の沓が脱げたのを拾い上げたことをきっかけに二人は親交を結んだと伝えられる。両者は蘇我倉山田石川麻呂らを味方に引き入れて計画を練り、六四五年、飛鳥板蓋宮の朝廷において、剣を携えた中大兄皇子ら一党が入鹿を討ち取った。父の蘇我蝦夷は翌日自邸に火を放って自害し、蘇我氏本宗家は滅亡した。
大化の改新への貢献
この政変(乙巳の変)を機に、鎌足は新設された「内臣」に任じられ、以後、中大兄皇子を支えて公地公民制などの改革(大化の改新)を推進した。六六三年の白村江の戦い後は、唐・新羅への対応など外交面でも中心的役割を担った。
最期と藤原姓の下賜
天智天皇八年(六六九年)、山科での鷹狩りの最中に落馬して負傷し、病床に伏した。死の前日、天智天皇自ら見舞い、最高位の冠位「大織冠」と「藤原」の姓を授けたと伝わる。その翌日、五十六歳で没した。
後世評価
藤原鎌足は、以後千年余りにわたり日本の政治を左右する藤原氏の始祖として位置づけられ、乙巳の変と大化の改新の立役者として日本史上屈指の重要人物とされる。