※画像はイメージです。平安時代末期~鎌倉時代初期1122-1187
藤原秀衡
Fujiwara no Hidehira
奥州藤原氏三代当主・鎮守府将軍
解説
生涯
保安3年(1122年)、奥州藤原氏二代・藤原基衡の子として生まれた。保元2年(1157年)に父基衡が没すると家督を継ぎ、奥六郡の主として出羽・陸奥両国の押領使を兼ね、平泉を拠点に奥州藤原氏の最盛期を築いた。
源義経の庇護
安元年間(1175年頃)、鞍馬寺を出奔した源義経を平泉に迎え入れて庇護した。義経はのちに兄・源頼朝の挙兵に応じて平泉を離れるが、文治元年(1185年)に頼朝と対立して追われる身となると、再び秀衡のもとへ身を寄せ、秀衡はこれを受け入れた。
舞草鍛冶との関わり
平泉の対岸、北上川流域の一関には古来「舞草鍛冶」と呼ばれる刀工集団の集落があり、良質の鉄を背景に実戦刀としての「舞草刀」を産していた。この一帯は平安後期、奥州藤原氏の庇護のもとで大いに栄えたとされ、秀衡が当主として君臨した奥州藤原氏の全盛期は、舞草鍛冶が興隆した時期とも重なる。
逸話
文治3年(1187年)に没する際、秀衡は子の泰衡・国衡らに対し、義経を主として一致団結し頼朝に対抗するよう遺言したと『吾妻鏡』に伝わる。しかしこの遺言は守られず、秀衡の死の2年後、頼朝の圧力により義経は討たれ、奥州藤原氏も文治5年(1189年)に滅亡した。
後世評価
平泉に中尊寺金色堂をはじめとする仏教文化を築き上げた奥州藤原氏の全盛期を体現する当主として評価される一方、義経を最後まで庇護し続けた姿勢は、奥州の独立性を保とうとした「北方の王者」として今日も語り継がれている。