※画像はイメージです。千葉常胤
Chiba Tsunetane
源頼朝の挙兵を支えた房総の有力御家人
解説
千葉常胤(ちば つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、桓武平氏良文流の千葉氏第3代当主である。元永元年(1118年)に生まれ、建久の世を経て建仁元年(1201年)に84歳で没した。上総権介・下総権介を称し、官途名は千葉介。父は千葉常重。
生涯の前半
久安2年(1146年)、相馬御厨をめぐる紛争の中で相馬郡司職を回復し、支配地を伊勢神宮に寄進した。保元元年(1156年)の保元の乱には源義朝の指揮下で出陣している。佐竹義宗との相馬御厨をめぐる争いも続いた。
源頼朝の挙兵と常胤
治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に参陣したとされるが、会見の時期や場所には異説がある。富士川の戦いの後には、頼朝の上洛を急ぐ気持ちを抑え、佐竹氏の討伐を進言した。これにより相馬御厨を奪還している。寿永2年(1183年)に上総広常が誅殺されると、房総平氏の惣領の地位を得た。
主要戦歴
元暦元年(1184年)の一ノ谷の戦いに参加し、その後は豊後国で軍功を挙げた。文治5年(1189年)の奥州合戦では東海道方面の大将を務めた。建久4年(1193年)には香取社造営の雑掌を務めている。
子と逸話
子に千葉胤正、相馬師常、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通、東胤頼、園城寺の僧日胤がいる。源義隆の子・源頼隆を源氏の子として密かに育て、頼朝に対面させたと伝わる。頼朝が常胤を「司馬を以て父となす」と評したとも伝わるが、こうした感動的な逸話をそのまま事実とすることには慎重な見方がある。主な史料は『吾妻鏡』『源平盛衰記』『千葉大系図』である。
後世評価
千葉県・千葉市を開いた人物とされ、関東の在地領主であり鎌倉幕府御家人の典型と位置づけられている。千葉市稲毛区の大日寺には、常胤のものと伝わる五輪塔がある。