※画像はイメージです。島左近の愛刀
Beloved Sword of Shima Sakon
別名: 島清興佩刀(石田三成の懐刀・関ヶ原の猛将の刀)
解説
島左近(しまさこん、1540?〜1600)——本名・島清興(しまきよおき)——は、安土桃山時代の猛将であり、石田三成の側近中の側近として知られる「石田三成の懐刀」である。その武勇は戦国最強クラスと称えられ、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と詠われたほど、主君・三成の器量を超えた存在として讃えられた。左近の愛刀は、主従の信義と武人の誇りを象徴する刀として伝説的な評価を受けている。
左近は大和国(現・奈良県)の出身で、筒井順慶に仕えた後、複数の大名に仕えたが、最終的に石田三成に二千石という破格の知行で迎え入れられた。三成が「天下の名将」と見込んだ左近は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)でも武功を挙げ、主君のもとで西軍の旗頭として活躍した。
関ヶ原の戦い(1600年9月15日)では、左近は西軍の先鋒として東軍と激突した。「島左近の槍」とも称えられる近接戦法で東軍に甚大な損害を与えたが、通説では直接の交戦相手は黒田長政隊であり、黒田隊の鉄砲(銃撃)を受けて重傷を負い、その後の消息は不明となった。一説には戦場で討ち死にし、別説には重傷を負いながら落ち延びたとも伝わる。
左近の愛刀については、大和出身の生い立ちから大和鍛冶(千手院派・保昌派など)の刀を好んだとも、近江の鍛冶に依頼したとも伝わる。関ヶ原合戦後、左近が使用したとされる刀剣が大和の諸社寺に奉納されており、地元では武人の霊を弔う神刀として崇敬を集めている。また関ヶ原周辺の民家に「左近の形見」として伝わる刀がいくつか存在するとも言われるが、真贋の確認は困難な状況にある。
島左近の存在は「忠義の武将」の象徴として江戸時代から大衆文化に取り込まれ、浄瑠璃・歌舞伎の題材ともなった。その愛刀は「主君への誠心」を体現するものとして今日も崇敬を集め、石田三成ゆかりの地(滋賀県長浜市・彦根市)と並んで、大和各地の神社では左近の武霊を祀る祭事も継承されている。
逸話・伝説
島左近の愛刀には関ヶ原にまつわる複数の伝説がある。開戦前夜、左近が石田三成の陣に参上し「明日は某が先陣を承る」と申し出た際、三成が愛刀を左近に与えたと伝わる。その刀は「これで天下の義を貫け」との言葉とともに贈られ、左近は翌朝の突撃に際して「この刀で主君の志を遂げる」と誓ったという。また、左近の最後の突撃の際、刀が七人の東軍の武将を連続して斬り倒したとも伝えられ、「鬼左近の刀は人を選ばない」という畏れを東軍の兵に植えつけたという逸話も残る。関ヶ原周辺の農村では、秋の夜に野原を赤い炎が走る怪異は「左近の魂が愛刀を振って戦を続けている」のだと語り伝えられており、武将の無念が刀とともに土地に宿ったという信仰が今日も生きている。