※画像はイメージです。肥前忠広の刀
The Sword of Hizen Tadahiro
別名: 肥前忠広打刀(初代・肥前刀の開祖)
解説
肥前忠広(初代)は、肥前国(現・佐賀県)を拠点に活躍した新刀期最高峰の刀工のひとりで、「肥前刀」という一大流派を確立した始祖的存在である。初めは「忠吉」と銘を切っていたが、寛永元年(1624年)に武蔵大掾を受領すると同時に「忠広(忠廣)」と改めた。肥前忠広の刀の最大の特徴は、「小糠肌(こぬかはだ)」と呼ばれる非常に緻密で均質な地鉄にある。米糠のように細かく詰んだ板目肌は、他の産地に類例を見ない肥前独自の美しさを持ち、後代の研究者がこれを「肥前刀の証」と称するほどの特徴となっている。刃文は穏やかな互の目や小沸出来の直刃が多く、华美さよりも品格を重視した造りは、鍋島藩をはじめとする九州の武家階級に深く愛された。慶長年間(1596〜1615)から寛永年間(1624〜1644)にかけての作品群は特に評価が高く、初銘の「忠吉」時代の作は「初代前期」として別格の価値を持つ。佐賀県・九州各地の博物館に重要文化財として複数点が所蔵されており、肥前という地方の誇りを体現する日本刀史上の巨人として今日も顕彰されている。
逸話・伝説
忠広には、朝鮮から帰還した鍋島直茂が「筑紫の地にも名刀を生む土がある」と言い、若き忠吉(後の忠広)を京都の名工・埋忠明寿に弟子入りさせたという伝承がある。明寿の下で山城伝の精髄を学んだ忠吉は、帰郷後に肥前の砂鉄と薪炭の質の良さを活かし、「小糠肌」という前人未到の地鉄を生み出したとされる。また、初代忠広が打った一振りを見た老剣士が「これは刀ではなく流れる水だ」と評したという逸話も伝わり、その地鉄の滑らかさと潤いを称える言葉として今も語り継がれている。