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1863-08-17
大和国五条(現・奈良県五条市)、高取城、十津川、鷲家口
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文久3年(1863年)、京都の朝廷内では長州藩を中心とする尊皇攘夷派の公卿・志士たちが一時的に強い影響力を握っていた。彼らは孝明天皇自らが大和国の神武天皇陵に参拝し攘夷を祈願する「大和行幸」の詔勅を朝廷から引き出すことに成功した。この行幸計画は単なる宗教儀礼ではなく、天皇自身が攘夷運動の先頭に立つことで幕府に開国方針の撤回を迫り、事実上の倒幕運動の起点とすることを狙ったものであった。
この機運に乗じ、公卿中山忠光(当時22歳、侍従)を主将として、土佐藩を脱藩した志士・吉村虎太郎、儒学者の松本奎堂、絵師出身の藤本鉄石らを総裁に、行幸に先駆けて大和国内の幕府領を制圧し朝廷方の地盤を固めようとする一団が結成された。彼らは自らを「天誅組」と称し、8月14日に京都方広寺で挙兵を宣言、大坂・堺を経て高野街道を南下し大和へ進軍を開始した。参加者は当初、吉村ら土佐脱藩者19名を含む約40名程度であったと伝えられる。
8月17日午後、天誅組は大和国五条(現・奈良県五条市)の幕府直轄領を管轄する五条代官所を襲撃し、代官・鈴木正信ら5名を殺害してこれを制圧した。翌18日、天誅組は五条周辺の幕府領を朝廷の直轄地とする旨を宣言し、その年の年貢半減という施策を発表した。これは武力蜂起にとどまらず、周辺住民の支持獲得を狙った統治実験としての側面を併せ持っていた。この時点で河内国の地主・水郡善之祐らの同志も合流し、勢力は一時拡大した。
しかし天誅組の運命は、挙兵直後に京都で発生した政変によって暗転する。8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とする公武合体派が宮中での勢力回復に成功し、三条実美ら急進的な尊攘派公卿は京都から追放され、大和行幸そのものが中止された。行幸の先駆けとして挙兵していた天誅組は、大義名分を一夜にして失い、朝廷から見た「逆賊」の立場に転じることとなった。
後ろ盾を失った天誅組は、それでも大和国内での勢力拡大を試み、8月25日から26日にかけて大和郡山藩の支城であった高取城への攻撃を敢行した。しかし城方の抵抗は予想を超えて強固であり、総裁の一人・吉村虎太郎が銃創を負うなど攻撃は失敗に終わった。
高取城攻撃の失敗後、天誅組は幕命を受けた紀州藩・津藩・彦根藩など諸藩の追討軍、総勢約1万4000という圧倒的な兵力に包囲されていく。天誅組は山岳地帯の十津川郷に転じ、当初は地元の郷士(十津川郷士)数百名の協力を得て抵抗を続けたが、形勢の不利を悟った郷士たちが相次いで離反し、組織的な抵抗は次第に困難となっていった。
9月24日から27日にかけて、大和国鷲家口(現・奈良県東吉野村)において残存兵力は追討軍との最終決戦に至った。この戦闘で那須信吾、宍戸弥四郎らが戦死し、松本奎堂、藤本鉄石も相次いで討死した。吉村虎太郎は27日、深手を負ったところを追討軍に発見され、その場で生涯を終えたと伝えられる。主将の中山忠光は側近に守られて辛くも戦線を脱出し、大坂を経て長州藩へ逃れたが、翌元治元年(1864年)11月、長州藩内部の政争に巻き込まれ、藩士の手により暗殺された。
天誅組の変は、挙兵から壊滅までわずか40日余りという短命な事件であったが、幕末の尊皇攘夷運動が単なる言論・建白の段階を超えて、武力蜂起という実践的段階へ踏み出した最初期の事例として重要な位置を占めている。討たれた首謀者たちの首級は同年10月、京都・粟田口に晒され、当時の幕府はこれを断固たる逆賊として処断した。
しかし明治維新の成立後、天誅組に対する評価は大きく転換する。明治政府は彼らを尊皇の志に殉じた志士として再評価し、明治16年(1883年)以降、靖国神社への合祀や生存者・遺族への贈位が進められていった。現在では幕末史における「維新の魁」として位置付けられ、奈良県五条市や東吉野村には天誅組にまつわる史跡・墓碑が複数残されており、地域の歴史として今も語り継がれている。
天誅組の変で用いられた武器の記録には、代官所襲撃や高取城攻防、鷲家口の最終戦闘における白刃を交えた斬り合いの様子が各種の記録・伝承に残されている。幕末期の志士たちが帯びた刀剣の多くは、大坂・京都周辺で活動した刀工による新々刀であり、実戦での使用に耐える鍛法と携行性を重視した打刀が主流であった。天誅組の残存者が最後まで刀を手放さず戦い抜いた鷲家口の戦闘は、幕末動乱期における武士・志士階級と日本刀の関係性を示す典型的な事例としても、後世の研究者から注目されている。