
堺事件
慶応4年2月15日(1868年3月8日)
和泉国堺(現・大阪府堺市)、切腹は妙國寺
- 日時
- 慶応4年2月15日(1868年3月8日)
- 場所
- 和泉国堺(現・大阪府堺市)、切腹は妙國寺
- 結果
- フランス公使の要求を新政府が受け入れ、土佐藩士の切腹が命じられた。11人が切腹した時点でフランス側が中止を命じ、残る9人は土佐に返された。
勢力
土佐藩兵(新政府の命で堺を警護)
フランス軍艦デュプレクスの水兵
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概要
慶応4年2月15日(1868年3月8日)、堺港に上陸したフランス軍艦デュプレクスの水兵と、新政府の命で堺を警護していた土佐藩兵が衝突し、フランス人11人が殺傷された。事件は、新政府が成立して間もない時期の外交問題となり、土佐藩士の切腹という結末を迎えた。
衝突の経緯
堺に上陸した水兵と、警護にあたっていた土佐藩兵との間で衝突が起こって銃撃となり、フランス側に11人の死者が出た。
フランス公使の要求
フランス公使ロッシュは2月19日、新政府に五か条の要求を出した。内容は次のとおりである。
- 下手人の処刑 - 賠償金15万ドル - 皇族による謝罪 - 土佐藩主による謝罪 - 開港場からの土佐藩の武装した者の排除
新政府はこの要求を受け入れ、土佐藩士の切腹が命じられた。
妙國寺での切腹
2月23日、隊長の箕浦猪之吉ら20人の切腹が、妙國寺本堂の庭前で行われた。11人が切腹した時点でフランス側が中止を命じ、残る9人は罪人として土佐に返された。中止を求めたのはフランス艦長のプティ・トゥアールとされる。この9人は流罪となり、のちに赦免された。
その後
切腹した11人は、妙國寺の北隣の宝珠院の境内に葬られた。墓碑は土佐藩主の山内豊範が建て、「土佐十一烈士墓」として、昭和13年(1938年)8月8日に国の史跡に指定された。切腹の場所は妙國寺、墓所は宝珠院で、別の寺である。
妙国寺は森鷗外の小説『堺事件』の舞台とされる。大岡昇平は論考「森鴎外における切盛と捏造−『堺事件』をめぐって−」(1975年)でこの作品の史実の扱いを批判し、同じ動機から遺作『堺港攘夷始末』を書いた。