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慶応4年7月29日(1868年9月15日)
陸奥国安達郡二本松(現・福島県二本松市)二本松城
勢力
二本松藩・奥羽越列藩同盟援軍
新政府軍
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慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、東北地方へと戦火を広げていった。会津藩をはじめとする東北諸藩は、新政府による会津藩討伐の動きに反発し、同年5月、奥羽越列藩同盟を結成してこれに対抗する姿勢を示す。陸奥国安達郡二本松(現・福島県二本松市)を治めた二本松藩10万700石は、藩主・丹羽長国のもとでこの同盟に加わり、会津藩とともに新政府軍と対峙する道を選んだ。二本松藩は本来、譜代に準じる格式を持つ藩であったが、周辺諸藩の動向と同盟の圧力の中で新政府への恭順か抗戦かの選択を迫られ、最終的に抗戦を決意する。しかし主力兵力の多くは、同盟の中心である会津若松や白河方面の防衛に割かれており、二本松城自体の守りは手薄な状態にあった。
慶応4年7月、新政府軍は白河口方面から二本松領内へと進撃を開始する。板垣退助らが率いる薩摩・長州・土佐・肥前などの諸隊、総勢およそ7000は、二本松藩の守りが手薄になっている隙を突いて本宮方面から侵攻した。これに対し二本松藩が城内外にかき集めた兵力は、仙台藩など同盟諸藩からの援軍を合わせても千名程度にとどまり、兵力差は歴然としていた。7月29日(新暦9月15日)、新政府軍は二本松城下に総攻撃を仕掛ける。城下では激しい市街戦が展開され、藩士やその家族、そして本来であれば戦列に加わるはずのなかった少年たちまでもが動員されて防戦にあたった。奮戦もむなしく二本松城は次第に追い詰められ、この日のうちに主要な建物が炎上し、開城に至る。藩主・丹羽長国は米沢へ逃れ、二本松藩はここに事実上崩壊した。
二本松の戦いが後世に強く記憶される最大の理由は、「二本松少年隊」と呼ばれる年少の藩士たちの奮戦と悲劇にある。当時の二本松藩では出陣年齢を満17歳以上と定めていたが、深刻な兵力不足のなか、実際には12歳から17歳前後の少年たちまでもが隊を編成して実戦に投入された。彼らは大人と同様に甲冑を身にまとい、腰には実戦用の刀を帯び、銃や槍とともに戦闘に加わったと伝えられる。戦死した少年の中には数え14歳の者も含まれており、実際に刀を抜いて敵兵と切り結んだとする証言も後年の記録に残されている。この少年隊の逸話は、幕末という時代において「武士の魂」としての刀がなお実戦で振るわれていたことを示す象徴的な事例として語り継がれ、現在も二本松市内には少年隊士を祀る霞ヶ城公園の顕彰碑や、彼らの遺品・佩刀の一部を伝える資料が残されている。
二本松城の落城により、二本松藩側の戦死者は多数にのぼり、応援に駆けつけた仙台藩など他藩からの戦死者も少なくなかったと伝わり、その中には二本松少年隊の隊士十数名が含まれていた。二本松藩はこの後まもなく新政府軍に降伏し、奥羽越列藩同盟における有力な一角が崩れたことで、同盟全体の劣勢は決定的なものとなっていく。二本松の戦いは、会津戦争へと続く東北戦線の激化の中の一局面でありながら、藩の存亡をかけた抗戦の悲惨さを最も象徴する戦いの一つとして記憶されている。
二本松の戦い、とりわけ二本松少年隊の悲劇は、戊辰戦争における東北諸藩の抗戦がいかに追い詰められた状況下で行われたかを物語る事例として、今日まで語り継がれてきた。会津藩の白虎隊と並び称されることも多く、明治以降、二本松では少年隊士たちを顕彰する慰霊祭や記念碑の整備が続けられてきた。歴史学的には、二本松の戦いは単なる一地方戦にとどまらず、旧来の身分・年齢秩序すら崩壊させるほど追い詰められた奥羽越列藩同盟側の窮状を示す事例として、また幕末期における武士の刀剣文化が実戦の最終局面でどのように発揮されたかを考える上でも重要な事件として位置づけられている。