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明治30年(1897年)
日本(東京・内務省所管)
勢力
国(内務省)
古社寺(所有者)
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1897年(明治30年)、古社寺保存法(明治30年法律第49号)が公布された。古社寺の建造物と宝物を国が保護するための法律であり、条文は附則を含めて20条で構成されている。特に歴史の証徴または美術の模範となるものを「特別保護建造物」または「国宝」に指定するという仕組みを備え、日本の法制度に「国宝」という区分が現れた最初の例とされる。刀剣の世界から見れば、今日の国宝・重要文化財の指定制度へ連なる最初の枠組みが、この年に作られたことになる。
明治維新の後、社会が急速に近代化へ向かう中で、古い社寺や旧家が伝えてきた古美術品の扱いが問題となった。1871年(明治4年)には、前身にあたる「古器旧物保存方」が出されている。この布告は古い器物の保存を促す性格のもので、制度としては緩やかなものにとどまった。同じ時期の神仏分離とそれに続く廃仏毀釈の動きの中では、各地で伝来の仏像や仏具、古建築の多くが散逸し、破壊され、あるいは国外に流出したと自治体の文化財資料は伝えている。こうした経験が、古社寺の宝物を体系的に守る法律を求める声につながった。
古器旧物保存方は、日本で最初の文化財関連法令と見なされている。この太政官布告に基づき、近畿地方を中心とした社寺などに「古器旧物」の目録を提出させたとされ、その目録を元に、1872年(明治5年)5月から10月にかけて壬申検査が行われた。壬申検査は日本初の文化財調査とされ、町田久成と蜷川式胤が関わり、高橋由一と横山松三郎が記録係として同行した。社寺の宝物を国が把握し、目録として記録するという発想は、ここで初めて実地に試されたのである。
とはいえ、調査と保存の呼びかけだけでは、所有者の事情による売却や散逸を食い止める力は弱かった。国が把握した宝物を、補助と制限の両面から守る法的な枠組みが求められるようになる。1897年の古社寺保存法は、明治初年の調査の延長線上に、保存費の補助という実効的な手段を加えた制度として位置づけられる。ただし、この時期に社寺から刀剣がどの程度失われたかを具体的に示す確かな典拠は、今回の調査では確認できていない。刀剣の散逸について断定的に語ることは控えたい。
法律の成立には、帝国博物館総長を務めた九鬼隆一が尽力したとされる。九鬼は宮内省の図書頭に就くと臨時全国宝物取調を設けて委員長を務め、フェノロサと岡倉天心も委員として文化財の調査と保護にあたった。1888年(明治21年)には、九鬼はフェノロサを伴って近畿地方の社寺や美術品を2度にわたって調査している。1889年に帝国博物館が東京・京都・奈良に設立されると初代総長に就任し、1900年に退任した。社寺に眠る宝物を実地に調べ、その価値を言葉にして制度に結びつけた経験が、1897年の立法の土台にあったとみられる。
「国宝」という語が法令で初めて使われたのは1897年であり、同年12月28日付で最初の指定が行われた。この時代の制度には、のちのような「国宝」と「重要文化財」の区別はなかった。国が指定した美術工芸品と建造物は、すべて「国宝」と呼ばれたのである。したがって、明治から昭和前期にかけての「国宝」は、今日の国宝よりも広い範囲を指す語であったことになる。この点は、のちに旧国宝が重要文化財とみなされたことを「格下げ」と誤解しないために、押さえておく必要がある。
古社寺保存法の骨格は三つに整理できる。第一に、国は古社寺が所有する建造物と宝物類のうち、特に歴史の証徴または美術の模範となるものを「特別保護建造物」または「国宝」に指定する。第二に、その保存のために年5万円以上20万円以内の補助を行う。第三に、指定された物件については売却と海外への流出を禁じ、美術館や博物館での管理と展覧に出す義務を所有者に課す。
所管は当初内務省で、1913年(大正2年)に文部省へ移った。1919年(大正8年)には法律第44号による一部改正も行われている。このように、国が所有者に補助を与える代わりに、勝手な処分を制限するという構造は、のちの文化財行政の基本形となった。補助と制限を引き換えにする考え方は、現代の文化財保護法にも通じる。
条文は対象を「宝物」と包括的に呼んでおり、刀剣という語を明示して取り上げているわけではない。それでも、社寺は古くから太刀や短刀を奉納品として受け入れ、神宝として守り伝えてきた場である。奉納された太刀が社寺の宝物の一部であった以上、刀剣が古社寺の「宝物」として制度の対象に含まれ得たことは、制度の性格から自然に理解できる。実際に、国指定文化財等のデータベースには、神社が所有する太刀に明治期の指定年が記録されている例がある。
後年の記録を見ると、1950年の文化財保護法の施行以前に指定された物件は「旧国宝」と呼ばれ、古社寺保存法と国宝保存法の下で指定された刀剣はそのまま旧国宝として扱われた。1950年以前にこれらの法律に基づいて指定された刀剣が国宝と呼ばれていたことは、刀剣の格付けを解説する資料にも記されている。ここで重要なのは、国による刀剣の評価が、刀剣商や鑑定家の世界の格付けとは別の、行政上の指定という軸で動き始めたという点である。
刀剣の解説で「旧国宝」「古社寺保存法による指定」といった語に出会ったとき、それが何を意味するかをこの法律の仕組みから読み取ることができる。まず、古社寺保存法の対象は社寺の所有物に限られていたので、この法律の下で国宝とされた刀剣は、社寺に伝わった太刀や短刀であったと理解できる。次に、当時の「国宝」は国指定の最上位ではなく、国が指定した物件の総称であったため、現在の区分に直すには1950年以後の再指定の結果を見る必要がある。刀剣を調べる際には、指定の年と根拠となった法律を確認することが、その刀剣が国の制度の中でどのような経路をたどってきたかを知る第一歩になる。
古社寺保存法の対象は、あくまで社寺が所有する物件に限られていた。このため、城郭や旧大名家が所蔵する宝物などを十分に保護できないという限界が指摘されるようになる。旧大名家の蔵に伝わった名刀は、多くが個人や家の所有物であり、この法律の枠の外にあった。この空白が、次の立法を要請することになる。
古社寺保存法は1929年(昭和4年)7月1日、国宝保存法の施行に伴って廃止された。すでに「特別保護建造物」や「国宝」とされていた物件は、国宝保存法の「国宝」へ移行した。つまり、この法律が作った国宝の枠は、形を変えながら連続して引き継がれたのである。
刀剣の歴史から見たこの法律の意義は、三点にまとめられる。第一に、国が古い宝物を指定し、補助を与え、処分を制限するという手法を確立したこと。第二に、売却と海外流出を禁じる考え方を法に取り入れたこと。第三に、刀剣を含む宝物が、所有者の私的な財産であると同時に、国民共有の歴史資料でもあるという認識の出発点になったことである。刀剣が美術工芸品として公的に位置づけられていく長い流れの、最初の一歩がここにあった。