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1016-01-01
山城国京都(平安京)
勢力
藤原摂関家(北家)
天皇家・他公家勢力
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藤原氏が摂政・関白として政治的実権を掌握する「摂関政治」は、9世紀後半の藤原良房・基経から始まり、11世紀の藤原道長・頼通父子の時代に絶頂を迎えた。この時代の日本は、ユーラシアの同時代文明と比較しても稀有なほど洗練された宮廷文化を花開かせた一方で、地方統治と武力の担い手としての「武士」という新たな身分層が胎動し始めていた。
寛仁2年(1018年)、藤原道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という著名な和歌を詠んだとされる(『小右記』記録)。これは彼の三人の娘——彰子・妍子・威子——が相次いで天皇の后になったことを月の満ちた状態にたとえたもので、道長の権勢が前人未踏の頂点に達したことを端的に示す。
道長が権力の絶頂に立った背景には、「天皇家への娘の嫁入り → 外孫が天皇となる → 父(道長)が摂政・関白として実権掌握」という摂関政治の基本メカニズムがある。藤原氏は北家が他の公家勢力を次々と排除しながら、自家の女子を天皇の後宮に送り込み続けた。その結果、奈良時代から連続する日本の律令国家の頂点が、実質的に藤原北家の当主によって運営される構造が完成した。
摂関政治最盛期は、日本文化が中国文明の直接的影響から自立して独自の洗練を遂げた「国風文化」の時代に重なる。仮名文字の発達、和歌の隆盛(紀貫之・藤原定家の系譜)、源氏物語・枕草子に代表される女流文学の繁栄、絵巻物・蒔絵・有職故実など多様な文化形式が、平安京の宮廷を中心として花開いた。
紫式部の『源氏物語』は、道長の娘・彰子に仕える女房として書かれた。物語中に登場する「光源氏」は、その権力・美貌・文化的洗練において道長を彷彿とさせる人物として解釈されることがある。宮廷では漢籍の教養は当然として、音楽(管弦)・書・絵画・蹴鞠・薫物などの諸芸が武人の戦技と並んで社会的地位を規定した。
摂関期の中央では貴族文化が爛熟していたが、地方では律令体制の崩壊とともに武装した在地領主(後の武士)が台頭しつつあった。律令体制下では軍事は徴兵によって賄われていたが、律令の形骸化とともに中央政府は地方の治安維持を在地の有力者に委ねざるを得なくなった。
この過程で、日本刀の技術も大きな転換を経た。8〜9世紀の「蕨手刀(わらびてがたな)」や「毛抜形太刀(けぬきがたたち)」は直刀ないし軽微な反りを持つものであったが、10〜11世紀にかけて騎馬戦術の発達と連動して、より長く、より反りの深い「湾刀(わんとう)」——すなわち日本刀の原型——が確立された。
騎馬武者が馬上から敵を斬るには、直刀よりも反りのある刀の方が引き斬り動作に適している。この戦術的要請が、10世紀以降の刀工たちによる技術革新(沸え・匂い口・地肌・刃文など)と結びつき、平安末期から鎌倉初期に「太刀」の黄金期が到来した。摂関政治最盛期は、ちょうどその技術的過渡期にあたる。
寛仁・万寿年間(1017〜1028年)を頂点とする道長政権下でも、地方の武力紛争は頻発した。939年の「承平・天慶の乱」(平将門の乱・藤原純友の乱)は、朝廷が地方の武力紛争を自力では鎮圧できないことを明白にした。朝廷はやむなく源氏・平氏などの武家を「押領使(おうりょうし)」「追捕使(ついぶし)」として任命し、武力を借りて乱を鎮めた。
11世紀の前九年合戦(1051〜1062年)・後三年合戦(1083〜1087年)では、源頼義・義家父子が陸奥国の武力紛争に介入し、東国における「武士の棟梁(源氏)」としての地位を固めた。これらの戦役は中央では摂関家の権勢が保たれる時期に起きており、中央文化の爛熟と地方武力の成長という二重構造が摂関政治最盛期の特徴である。
藤原頼通(道長の長男)は父の権勢を受け継いで関白を務めたが、自分の娘を入内させても皇子に恵まれないという悲運から、摂関家の主導権が弱体化し始めた。後三条天皇(在位1068〜1073年)は藤原氏を外戚としない約170年ぶりの天皇として即位し、摂関政治への依存を意図的に排除した院政の先駆けとなった。
その後、白河上皇(1086年〜)が「院政」を開始し、天皇家自身が実権を取り戻すと、摂関政治は形骸化した。さらに院政期の武力紛争——保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)——を経て平清盛が台頭し、遂に武士が中央政権を掌握する道が開かれた。
摂関政治最盛期は、刀剣文化の観点から見ると「過渡の黄金期」である。貴族社会は刀を「武威の象徴」として儀礼に取り込みながら、実際に刀を使う武士階級が勃興する時代を生きた。平安時代の刀工——三条宗近(「三日月宗近」の作刀者とされる)が活躍したのもこの時代の前後であり、湾刀への技術的完成が貴族文化の爛熟と並行して達成された。
摂関期の公家社会では、儀礼における刀の着用(太刀を腰に下げる「佩刀」の作法)が武士のみならず上級貴族にも適用され、宮廷行事においても刀は重要な礼服の一部であった。この貴族文化との接点が、後の「刀は武士の魂」という観念の中に「雅」と「武」の二重性をもたらす源泉となったと考えられる。
11世紀の貴族社会の爛熟と武士の胎動という二重性は、鎌倉・室町・江戸時代を通じて形成されていく「日本刀文化」——美術・儀礼・精神性が渾然一体となった独特の刀剣観——の遠い起源として位置づけることができる。