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※画像はイメージです。対馬(つしま)は九州と朝鮮半島のほぼ中間に位置する島で、江戸時代を通じて宗氏が治める対馬藩の領地だった。山がちで耕地が乏しく、米の収穫だけでは藩財政を維持できない土地柄だったため、宗氏は古くから朝鮮半島との交易によって藩の生計を立ててきた。この地理的条件こそが、対馬藩を江戸幕府にとって唯一の対朝鮮外交・貿易の窓口たらしめた理由である。
刀剣の歴史というと京都・鎌倉・備前といった国内の産地や合戦の話に目が向きがちだが、江戸時代の日本刀は対馬藩を経由して朝鮮半島とも結びついていた。この対外交流の実態を知ることは、日本刀を国内完結の工芸品としてだけでなく、東アジアの外交・貿易網の中に置かれた品物として理解する手がかりになる。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592〜1598年)は、日本と朝鮮の関係を著しく悪化させた。両国の国交は事実上断絶し、対馬藩の貿易収入も大きな打撃を受けた。
徳川家康が政権を握ると、対馬藩主の宗義智は国交回復に向けて朝鮮側との交渉を重ねた。その結果、1609年(慶長14年)に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれ、対馬藩は朝鮮との貿易を再開する特権を得た。この条約は、対馬藩が江戸幕府と朝鮮王朝の間に立つ「窓口」としての地位を制度的に確立したものである。
己酉約条による国交正常化を経て、朝鮮王朝は将軍の代替わりなどの節目に「朝鮮通信使」と呼ばれる公式の外交使節団を日本へ派遣するようになった。1607年から1811年までの間に、通信使は複数回にわたって来日し、江戸まで盛大な行列を組んで移動した。
対馬藩は、この通信使の来日に際して案内・警護・通訳を一手に担った。宗氏の家臣には朝鮮語に通じた者が代々置かれ、外交文書のやり取りや儀礼の段取りも対馬藩が実務を担当した。通信使一行の江戸までの旅程は沿道の諸藩にとっても一大行事であり、日本国内における朝鮮文化との接触の機会にもなった。なお1811年の最後の使節は、江戸幕府の財政事情などから江戸ではなく対馬で応接する「易地聘礼」という形式に改められている。
対馬藩の貿易実務の拠点となったのが、朝鮮側の釜山に置かれた「倭館(わかん)」である。倭館には対馬藩士や商人が常駐し、朝鮮側の窓口機関とやり取りしながら公式・非公式の交易を行った。
この交易では、日本側から銅や日本国内で加工された工芸品などが持ち込まれ、朝鮮側からは木綿や高麗人参、大蔵経といった品々が日本へもたらされた。刀剣や刀装具についても、日本製の刀や小道具は倭館を通じた交易品目の一つとして扱われており、対馬藩を介した日朝間の物流の一端を担っていたことが知られている。江戸時代の日本刀が国内市場だけでなく、こうした対外交易ルートにも接続していた点は、日本刀の流通史を考えるうえで見落とされがちな側面である。
日本の武家社会には、太刀を正式な贈答品として用いる「進物」の作法が古くから根づいていた。将軍や大名同士の儀礼的な贈答の場面で、太刀に目録を添えて贈る「太刀目録」の慣習がその代表例である。
対馬藩が担った日朝外交の場でも、こうした武家儀礼の延長として刀剣が贈答の対象になったことが記録されている。もっとも、どの使節の際にどのような太刀が贈られたかという個別具体的な詳細は史料によって確認が必要な部分が多く、本稿では「刀剣が公式な外交儀礼の一部として扱われる文化的土壌が江戸時代の日本にあった」という点を押さえておきたい。
対馬藩を介した日朝関係は、次のような要素から成り立っていたとまとめられる。
対馬藩の日朝外交・貿易ルートは、日本刀が江戸時代を通じて国内だけで完結していた工芸品ではなく、東アジアの国際関係の中に組み込まれた交易品でもあったことを示している。刀剣を鑑賞・収集する際、その一振りがどのような時代の、どのような流通網の中で作られ、使われてきたのかという背景を知ることは、モノとしての価値だけでなく歴史的な奥行きを味わう楽しみにつながる。
TOUKENZAのオンラインカタログでは、時代や産地の異なる多様な日本刀を閲覧できる。刀剣が歩んできた歴史的背景に関心を持ちながら出品作を見比べてみると、これまでとは違った視点で一振りの価値を感じられるはずだ。
日本刀×日本文化体験
観光スポットと刀剣文化をつなぐ多言語展開。